三桃シ倒語の日記

お前の枠にはまってたまるか

自分の字では勉強できない

とても面倒な事に、自分でノートを作って、それを参考にして勉強するのがとても苦手だ。

読解不可能なほど汚いわけでもないが、自分の字ではなかなか勉強できない。

逆に、テキストや参考書、問題集などの印字で勉強する事は容易い。

中学時代は、「板書したノートを提出しなさい」という教師は何人かいたが、苦痛で仕方なかった。ノートはプライベートな空間で、心の中を覗き込まれるような感覚だった。余白があるとうっすらと落書きをしてしまうので、それを消すのも面倒だった。対策として、板書したノートを元に清書していた同級生もいたが、勉強よりも教師受けするノートの作成を目的としているように思えて、実行はしていない。

大学時代は、レジュメやテキストのない講義の場合、板書したノートをWordで活字にしていたこともあったが、その方法で成績が安定した覚えはない。

つまり、自分の字で勉強できないというよりも、ノートのまとめ方が自分にとって適切ではないという事か。

己との付き合い方を考えたい。

ゆるふわより愛をこめて

「ゆるふわ」。

 

その言葉をググれば、髪型が主にヒットする。

調べてみても、意味がよくわからない。

おそらく、はっきりと定義されていない事自体が「ゆるふわ」であり、権威のある言語学者や辞書によって「ゆるふわ」が定義されてしまえば、それは「ゆるふわ」ではなく「ゆるふわのような何か」になってしまう。

 

そして、ゆるふわは儚い。

ゆるふわな髪型を実現する為のパーマはpermanent(永続する)に由来する言葉だが、その意味に反して、適切なケアを行わないとゆるふわを保つのは難しい。まして1度のパーマでゆるふわを永続させる事は不可能に近い。ゆるふわは刹那的で、儚い。

しかし、人生においてゆるふわをほどほどに取り入れたいと最近感じるようになった。

忙しない日々に緊張感を抱くよりも、ゆるふわでも生きていきたい。

 

「ゆるふわ」。

その意味は、誰も知らない。

妄想カフェ巡り

一時期、どこかのプロフィールで趣味はカフェ巡りだと書いた気がするけど、それらしいことをした覚えが全くない。

コスパ重視でそれなりの器具(水出しコーヒーとか)を揃えてしまったのでカフェ巡りをする必要がない。最近は歯の調子が悪いので、外出先で食事をする時は歯みがきセットと、歯みがきができる場所がないと安心できない。

 

何でカフェ巡りなんて嘘を書いたのだろう。

いや、確かに、通りがかりの喫茶店に入ってはティータイムを楽しむ時期はあった。しかし、それも学生時代のことである。雑誌を読んだだけで行った気になっていたのだろうか。オシャレを気取っていたのだろうか。真相は自分の無意識にある。

そもそも自分の趣味は何だったのだろう。無趣味を誤魔化す為にカフェ巡りと書いたのかもしれない。空虚な自分に少しでも彩りを与えたいが故に虚構を作ったか。馬鹿馬鹿しい。

 

趣味が欲しい。

ぽっかり

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その街の名が歴史の教科書に載るのは1858年、日米修好通商条約の時である。

横浜みなとみらい21」と呼ばれる区画の一部には空き地が広がっており、都会であることを忘れさせるほど見通しも良い。今ほどビルやマンションが建っていなかった時代には、海に打ち上げられた花火が見えたそうだ。

「都会の喧騒」と言うけどここは静かで、何も考えずにぶらぶらと歩くのには丁度良い。何もないという安心感で満たされる。そして、都市は自然発生するものではなく人の手で作られるものだと実感できる。たかが160年ほどの歴史しかないこの街が証明してくれる。

私の地元の地方都市で大型店舗の閉店が相次いだ時、建物は取り壊され、間もなく駐車場になった。衰退を象徴する、都市の穴ぼこができた。しかし、空き地は衰退ではなく発展の可能性を秘めているとでも言いたいように、横浜はいつも変わらぬ空き地を準備して待っている。

空き地を守る囲いの中。枯れ草がすすり泣きをしている傍らでゴミが群れをなし、たんぽぽが根を張っている。

ペリーやハリスが来なかったら、空き地なんてなかったのかもしれない。

水出しコーヒーに手を出す

去年の記事で毎朝熱湯で抽出して氷で冷やす方式でアイスコーヒーを嗜んでいる旨を書いたが、やはり手間がかかるので今年は水出しコーヒーを作ることにした。

下記の道具を揃える前はコンビニでコーヒーを買って出勤するパターンも多かったが、職場の最寄駅から職場までの道のりにコンビニがなく、寄り道しないとコーヒーが手に入らないのは不便だったので、自宅で朝一番にコーヒーを飲むことにした。

 

 「珈琲の大事典」という本を参考に、まずは豆選びから。思考停止でブレンド豆、というのも味気ないので、アイスコーヒーに適したものを。焙煎度はフレンチ、メッシュは細挽き。

 

珈琲の大事典

珈琲の大事典

 

 

水出しコーヒー用のポットを手に入れる。書籍にも掲載されていた、有名メーカーでお手頃なものがあったので、これで決定。 

 

 作り方も簡単で、コーヒー粉をフィルターの中に入れ、水を少しずつ注いで8時間ほど抽出すればよい。

選んだ豆だとそこそこ苦味が強いが、冷水がほどよく中和してくれて、なかなか爽やかな味わいである。昨年に比べると、朝の慌ただしさがなくなり、余裕をもって飲むことができた。

 

欠点は、ペーパードリップより遥かにフィルターの掃除・片付けが面倒なことだろうか。

まず、抽出した後のコーヒー粉をできるだけ三角コーナーに捨てるのだが、フィルターに張り付いているので多くを取り出すのには骨が折れる。仕方なくフィルターの外側から水を流して掃除するが、シンクがコーヒーまみれになってさらに掃除の手間が増える。揚げ油の凝固剤のようなものがコーヒー粉に使えたら良いのだが。

枕を濡らしたくないから

勤務中以外、行き帰りの電車に乗っている時や自宅にいる時は涙を流している。

 

電車の中で顔色が悪かったら「大丈夫ですか」と声をかけられるが、俯いていて涙を流しても不思議そうな顔をされるだけで何も言われない。こういう時だけ都合良く世の中は回る。

冬は厭でも気分が落ち込む季節だ。

涙を流すのは現在進行形の自分の不甲斐なさではなく、未来進行形の自分の不安定さ故に、である。

誰かのものともわからぬ、吐き捨てるような「死ね!」という怒鳴り声、関わりたくない類の人間の意味をなさない金切り声、様々な声が聞こえては耳を塞ぎ、沸き起こる破壊衝動を抑えては頭を抱える。

 

「おでぐちは、ひだりがわです。」

 

朝早く目を腫らすと、降りる時にはハンカチが欠かせない。

陰鬱なスーツ達をかき分ける。

少しだけ大きな声を出す。

 

「おはようございます」

ありのままの私は死んだ。

精神的郷愁

夢を見る。

 

中学生や高校生に戻り遅刻しそうになる夢、とんでもないことをしでかす夢、そして、碁盤目の京都や要塞の如き大阪で買い物をする夢。

今や買い物に行くのに不便は無い所に住んでいるにも関わらず、夢に見るのは遥か西。ジークムント・フロイト的な抑圧された無意識は、大学時代に過ごした関西で埋め尽くされているのだろうか。

 

集団主義を是とする義務教育から高校、大学と、進学を重ねる度に自分の心が軽くなった。その中でも大学は自分には非常に心地よかった。人間関係に縛られず、親のすねをかじり、責任もさほど問われない。モラトリアムと言われるだけのことはある。

 

でも、自分は今は大学生ではない。

あの頃と同じ感覚で生きているわけではなく、自分で生活を彩る楽しさを感じ、それに伴う責任を抱えて生きている。

 

それでもなお、夢の中で関西が花咲く。

大学を卒業して故郷に帰っても、関東で仕事をしていても、心だけを関西に置いてけぼりにしているような感覚だ。

精神の故郷。

近いうちに、また帰られるだろうか。