三桃シ倒語の日記

お前の枠にはまってたまるか

隣の芝生はblue

家具、家電、バッグ、タブレットのアクセサリー……何年も使うものを選びに選んで買っても、後で他の商品を見ると「ああ、こっちのほうがよかったかな」と後悔してしまう。

隣の芝生は青い、とはよく言ったもので、自分の検索能力の低さを恨んでしまう。ボールペンのように安価なものであれば、これは自宅用、それは持ち歩き用、と比較しながら使うこともできる。そのうち自分の好みに合ったものをリピートするようになるので、じっくりと判断するには丁度良い。

高価なものなら気に入らなければ売ればいいが、あまりものを売ったり捨てたりすることができない性分なので、壊れる、破れる、命尽きるまで使う。その頃にはまた新しい商品が誕生しているので、今度は失敗しないと己に誓い、選ぶ。

まあ、また失敗してもいいか、という余裕が欲しい。

休日のビジネス街

陰鬱な表情の背広達が影を潜め、遊び疲れたキャリーバッグ達も少ないコンクリートジャングルはとても静かだ。

飲食店も、スーツ達に合わせて土日・祝日に休んだり、いつでも大歓迎とニコニコしていたり様々だ。休日のビジネス街は、いつもの忙しさがなく、ゆっくりと呼吸をしているような趣があり、気に入っている。

仕事に燃える人間達にも帰る場所があり、それはこのビジネス街ではないと言いたげに、不安定な音程のオルゴールが鳴り響く。

オルゴールのメンテナンスをする人も、帰る場所に帰っている。

 

夏の終わりとスイカバー

半袖か、長袖か。迷う季節になった。

ここ2、3年でスイカバーをよく食べる。スイカはさほど好きではないが、スイカバーは好きだ。スイカに似つかわしくない甘ったるさと、パフ入りの種チョコが絶妙だ。今年はパインバーという、味こそパインではあるものの謎の白い種が入っているセブンイレブン限定商品も食べた。

9月になるとスイカバーは店頭から姿を消し、夏の終わりが近づいていることを実感する。

ただ、既にハロウィンに浮かれている小売店の変わり身の早さが理解できないので、私の夏はまだ終わっていない。

 

 

自分の字では勉強できない

とても面倒な事に、自分でノートを作って、それを参考にして勉強するのがとても苦手だ。

読解不可能なほど汚いわけでもないが、自分の字ではなかなか勉強できない。

逆に、テキストや参考書、問題集などの印字で勉強する事は容易い。

中学時代は、「板書したノートを提出しなさい」という教師は何人かいたが、苦痛で仕方なかった。ノートはプライベートな空間で、心の中を覗き込まれるような感覚だった。余白があるとうっすらと落書きをしてしまうので、それを消すのも面倒だった。対策として、板書したノートを元に清書していた同級生もいたが、勉強よりも教師受けするノートの作成を目的としているように思えて、実行はしていない。

大学時代は、レジュメやテキストのない講義の場合、板書したノートをWordで活字にしていたこともあったが、その方法で成績が安定した覚えはない。

つまり、自分の字で勉強できないというよりも、ノートのまとめ方が自分にとって適切ではないという事か。

己との付き合い方を考えたい。

ゆるふわより愛をこめて

「ゆるふわ」。

 

その言葉をググれば、髪型が主にヒットする。

調べてみても、意味がよくわからない。

おそらく、はっきりと定義されていない事自体が「ゆるふわ」であり、権威のある言語学者や辞書によって「ゆるふわ」が定義されてしまえば、それは「ゆるふわ」ではなく「ゆるふわのような何か」になってしまう。

 

そして、ゆるふわは儚い。

ゆるふわな髪型を実現する為のパーマはpermanent(永続する)に由来する言葉だが、その意味に反して、適切なケアを行わないとゆるふわを保つのは難しい。まして1度のパーマでゆるふわを永続させる事は不可能に近い。ゆるふわは刹那的で、儚い。

しかし、人生においてゆるふわをほどほどに取り入れたいと最近感じるようになった。

忙しない日々に緊張感を抱くよりも、ゆるふわでも生きていきたい。

 

「ゆるふわ」。

その意味は、誰も知らない。

妄想カフェ巡り

一時期、どこかのプロフィールで趣味はカフェ巡りだと書いた気がするけど、それらしいことをした覚えが全くない。

コスパ重視でそれなりの器具(水出しコーヒーとか)を揃えてしまったのでカフェ巡りをする必要がない。最近は歯の調子が悪いので、外出先で食事をする時は歯みがきセットと、歯みがきができる場所がないと安心できない。

 

何でカフェ巡りなんて嘘を書いたのだろう。

いや、確かに、通りがかりの喫茶店に入ってはティータイムを楽しむ時期はあった。しかし、それも学生時代のことである。雑誌を読んだだけで行った気になっていたのだろうか。オシャレを気取っていたのだろうか。真相は自分の無意識にある。

そもそも自分の趣味は何だったのだろう。無趣味を誤魔化す為にカフェ巡りと書いたのかもしれない。空虚な自分に少しでも彩りを与えたいが故に虚構を作ったか。馬鹿馬鹿しい。

 

趣味が欲しい。

ぽっかり

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その街の名が歴史の教科書に載るのは1858年、日米修好通商条約の時である。

横浜みなとみらい21」と呼ばれる区画の一部には空き地が広がっており、都会であることを忘れさせるほど見通しも良い。今ほどビルやマンションが建っていなかった時代には、海に打ち上げられた花火が見えたそうだ。

「都会の喧騒」と言うけどここは静かで、何も考えずにぶらぶらと歩くのには丁度良い。何もないという安心感で満たされる。そして、都市は自然発生するものではなく人の手で作られるものだと実感できる。たかが160年ほどの歴史しかないこの街が証明してくれる。

私の地元の地方都市で大型店舗の閉店が相次いだ時、建物は取り壊され、間もなく駐車場になった。衰退を象徴する、都市の穴ぼこができた。しかし、空き地は衰退ではなく発展の可能性を秘めているとでも言いたいように、横浜はいつも変わらぬ空き地を準備して待っている。

空き地を守る囲いの中。枯れ草がすすり泣きをしている傍らでゴミが群れをなし、たんぽぽが根を張っている。

ペリーやハリスが来なかったら、空き地なんてなかったのかもしれない。