三桃シ倒語の日記

お前の枠にはまってたまるか

赤木リツコは何者になるのか

※この記事は『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』のネタバレを含みます。

 

エヴァンゲリオン』シリーズに限らず、子どもが戦いに巻き込まれる物語はその落とし前として大人達が命を落とすことが多い。その死は子どもが大人になる為の成長痛でもある。

『:||』でも多くの大人達が命を落とす。

しかし、あらゆる因果を覆し、未来を託された大人がいる。赤木リツコである。

 

不潔な科学者にさようなら

TVシリーズや旧劇場版の彼女は、あらゆる確執にまみれた女であった。

スーパーコンピューター・MAGIの開発者であった母・赤木ナオコへのささやかな反抗心から髪を金に染め、科学者として使徒殲滅に努める傍ら、碇ゲンドウの愛人として彼に尽くした。

旧劇場版ではゲンドウの目論む人類補完計画の阻止の為、MAGIの自爆プログラムを発動させようとするが、カスパー―女としての赤木ナオコ―に裏切られ、ゲンドウに射殺される。

冷静で合理的な判断が冴える彼女だったが、その裏では人間臭い確執を抱えていた。彼女の部下の伊吹マヤの言葉を借りれば「不潔」だった。「大人の落とし前」として加持やミサトが本懐を遂げても、彼女はどこか煮え切らない最期を迎えていた。

だが、新劇場版においては母やゲンドウとの確執は見られず、『Q』ではヴンダーの副艦長としてミサトを支える。あまつさえ『:||』ではヴンダーに降りたったゲンドウを一目見るなりヘッドショットをお見舞いした。旧劇場版を観ている人こそこの行動力の変化に驚いたはずである。

人類補完計画を阻止する為、ゲンドウを殺す。彼女の意思こそ旧劇場版と変わらないものの、愛憎入り混じりながら母娘で心中するのではなく、人類の為に自分一人の手で迷いなく葬る。それが彼女の大きな変化であった。

 

女は旧劇に置いてきた

「頭髪には神も穢れも煩悩も宿っている。まさにカオスなヒトの心の象徴よん」

旧来セミロングであった彼女が、『Q』では一転してベリーショートになった。このことは、リツコ役の山口由里子さんに「女を捨てた」と表現されている。

私は、女としての赤木リツコは旧劇場版、つまり前のループに置いてきたのではないのかと考えている。前述の通り、新劇場版を通してゲンドウとの確執は感じられない為、『Q』時点で捨てたのではなく、旧劇場版に置いてきた。

髪を切ったことも、女を捨てたのではなく決意の顕れではないのかとも思われる。「髪は女の命」と言われるように、髪を切ることは心情の変化とつながっている。近年のアニメーション映画でも『君の名は。』『この世界の片隅に』のように女性キャラクターが髪を切るシーンが存在するが、いずれも「女を捨てた」とは言い難い。リツコが『Q』時点で髪とともに捨てていたのは、マリの台詞を借りれば、「神」であり「穢れ」であり「煩悩」だったのではないのか。

 

そして母になる

『:||』ではリツコは生還した。加持、そしてミサト、二人の親友を見送った彼女の心情は計り知れない。

脱出艇に乗る前、リツコはミサトから新たな役割が与えられた。

「母」である。

旧劇場版も含めて今までの彼女は「女」であり「科学者」であったが、「母」たりえなかった。「大人の落とし前」として「母」になることを拒んだミサトの遺志を継いで、リツコはリョウジの「母」になる。

 

「生き残るのが俺達の仕事だ」

脱出艇に乗り込むも、ミサトを助けようとヴンダーに戻ろうとする操舵手のスミレを止める高雄。死ぬことが必然とも言えた「大人の落とし前」を、リツコらヴンダーのクルーは生き残ることで果たしたのだ。

 

エヴァのない世界でも彼女は「科学者」として多忙であると想像できる。使徒殲滅や人類補完計画阻止の為に注ぎ込んだ知識のリソースを、次は希望のコンティニューの為に注ぐはずだ。

「女」は置いてきた。「科学者」として生き続け、「母」として新しい人生が始まる。

 

生還おめでとう、リッちゃん。あなたがいる未来は、きっと明るい。