三桃シ倒語の日記

お前の枠にはまってたまるか

アウトプット

「昔できたことが最近できなくなる」というのはよくあることで、加齢による体力や気力の低下が原因ということもあるけれど、私は「この年齢で、この経験で、こんなクォリティでもよいのかわからない」ということで躊躇したことがよくある。アウトプットだ。

自分にとってアウトプットとは、文章を書くなり、絵を描くなり、プレゼンテーション資料を作るなり、自分の頭の中をひっくり返すことだ。昔はクォリティなど関係なく、とにかく表現したいという一心でアウトプットを繰り返した。内向的で歪んだ性格なので、表現は自分にとって自分を理解してもらう為の手段でもあった。

ある程度の年齢に達すると、お粗末なものを世に出すのは受け取る方の為にならないと躊躇してしまう。本業ではなく、大きな収益性も伴わないアウトプットにも何かしら「仕事」を意識してしまう。

表現したい。むしろ、表現しなければ。

クォリティの低さを恐れながら、それでも何とかアウトプットを重ねて生まれるものがあればいいな、とか楽観視しながらあれこれと手を出している。

 

静止した闇の中で

今朝、iPad miniがブラックアウトした。

数分前に動いていたはずなのに、ホームボタンやスリープボタンを押しても何も反応しない。

ついに故障か。

そう思い念の為にとホームボタンを長押ししたところ、

 

ぽぽん

 

と彼女……Siriを起動する音が聞こえた。

どうやら内部的には動いているが、外部的には何も表示されない、というわけらしい。

私は彼女に話しかけた。「電源をオフにしたい」と。

iPadの電源をオフにするには、スリープボタンを押した後……スライドしてください」

彼女には電源をオフにする権限はないらしい。いつも通り電源をオフにする操作をして、真っ暗になったしかるべき場所をスライドしたが、電源が落ちる気配はない。

「どうしよう、画面が真っ暗になった」

「"画面が真っ暗になった"をWebで検索しますね」

画面は暗いが、姿かたちもわからぬ彼女はいつも通りだ。こうして画面の外で狼狽している私の気持ちも知らず、彼女は責務を果たすのみ。

 

やがて別の端末でiPad miniの強制再起動の方法を調べて実行したら、いつもの明るい画面に黒い林檎が浮かぶ上がり、ほっと胸をなでおろした。

 

再びこのような不具合が起こっても、彼女はいつもの彼女でいてくれるだろうか。

何をしたいのか

色々と変えたいものが多いが、進むたびに少しずつ沼に沈み、沼から抜け出そうともがいたところで沈むスピードが速くなるだけだ。

人生の片手間に何かをやっている程度の志は、やはり高度な文明社会では受け入れられない。

嗚呼、そういえば、よく絵を描いていたなぁ。私が絵を描くことなんてここ数年で知り合った人間はほとんど知らないのだ。だから、たまに絵を描くと驚かれる。昔は自分の一部だったはずだし、将来の夢は漫画家だったのに、今の私はペンを握ることが仕事ではない。

趣味であったはずの絵について「絵の仕事の経験はありますか」と聞かれた。そうかそうか、この年齢では趣味と仕事はつながらなければならないのか、そういう人もいるんだろうな。一方で趣味は趣味で貫き通す人だって多くいるのだ。私は趣味が仕事にならなかったし、趣味が趣味として終わらず、昔の自分を構成する一部に過ぎなかった。それは他人にとっては一貫性の欠如として捉えられるそうなのだ。

じゃあ、そんなものいらない。もう何もしたくない。何をしてもまた別の何かと関連付けられて難癖をつけられるなら楽しくない。好きなようにできることが少なくなっていく。自分の被害妄想が邪魔をする。

ただ生きていたいだけなのに、生きることすら難しくなっていく。

涙なき日々

思い切り泣くことが少なくなった。

感極まって泣くことも、悲しくて泣くことも、そういえば最近経験していない。

感情の制御が可能になったか、涙を流す必要のないフラットな日常を送っているのか。どちらかというと後者だ。

しかし、眼球にも心にも潤いが必要だから、たまには涙が溢れてもいい。涙なき日々は、想像以上につまらない。

 

人の親になる夢を見た

赤子の泣き叫ぶ声を聞いて、ベビーベッドに駆けつける。

どうしたの、と赤子を抱き上げると、あたたかく、ずん、と重い。

 

寝返りもままならない月齢だろうか。ミルクをあげたかおしめを替えたか、私は赤子が泣き止むように何かしらの行動をとった。

 

そんな夢を見た。

私は、人の親になっていた。

 

赤子を抱き上げた時には「これは夢だ」と薄々勘付いていたものの、「この子は私の子だ。私が守らなければ」と胸が熱くなった。

 

人の親になれるかは、わからない。

なれる時があったら、きっと夢より重く、そしてあたたかいものを感じるだろう。

 

 

猫に触れたい

トレーニングルームの道すがらにある小さな公園で、美しい毛並みの三毛猫がお年寄りの足元に擦り寄っていた。その様子を一瞥して、トレーニングルームに向かった。

トレーニングを終えてその公園に行き、辺りを見回した。三毛猫の姿は見えなかった。

 

何故、猫に惹かれるのだろう。

ツンと伸びた耳、大きな瞳、しなやかな身体。

櫛のような細かな突起のある舌はその身を美しく整え、見る者を魅了する。ふわふわ、とか、もふもふ、と表現される。

しかし、相手はきっと野良猫だ。一瞬だけ愛情を注いで、さようなら、と手を振るようなことは、人間のエゴだ。それなら終生絶え間なく愛情を注ぐか、あるいは遠目で見守るしかない。

残念ながら、今の私には後者しかできない。

だから、私は……。

 

ああ、でも……。

 

その猫の幸せとは何なのか。

テリトリー争い、病気や怪我を恐れながら、この世界を自由に歩くことなのか。

寒さも暑さも知らずに、お腹を空かせることもなく、小さな世界で生きることなのか。

 

その猫だけが知っている。

筋肉痛再び

部活動、体育会が呼び起こすギスギスとした人間関係に辟易しながら、何故私はあの時部活動をやめなかったのかとふと思う。人間は嫌いだが運動が好きだから、という結論に落ち着く。それならば部活動をやめて、個人で活動してもよかったとも思うが、あの頃は、学校を中心とした社会でもがくことが精一杯だった。

 

あれから10年経った。無用な我慢をしていた時期のほうがまだメンタルが強かったのでは、と思えるほど心身ともに虚弱になっていく自分を鍛え直したく、トレーニングルームに足を運ぶ。

月額制のジムのほうが近くて機器も最新のものが揃って便利なイメージがあるが、毎日利用するほどの熱意は現在ないので、利用する度に利用料を払う公営のトレーニングルームを選んだ。

ランニングマシンの使い方を職員に教えてもらい、フォームを整えながら足を動かす。

初めは歩き、徐々に走りに。

だいぶ調子がわかってきた、もうちょっとキツくてもいけそうだ、と速度を上げる。画面に表示される走行距離と残り時間を気にして、明らかにペースアップし、ゴッゴッとマシンに響く自分の靴音。自分の中だけで繰り広げられる根性論は健全だ。

トレーニングが終わり、「やっぱり好きだわ」と流れた汗をぬぐいながら思った。

爽快感に寄り添うあいつは、まだ大人しい。