三桃シ倒語の日記

お前の枠にはまってたまるか

レファレンスサービスのある公共図書館 北海道 カ行

正しく表記するなら、「レファレンスサービスを実施しているとホームページに記載のある公共図書館」です。「調べ物のお手伝いをします」等の表現をしている図書館も含みます。

 

北広島市図書館(※)

京極町生涯学習センター 湧学館(※)

清里町図書館

・市立釧路図書館

黒松内町ふれあいの森情報館「マナヴェール」

訓子府町図書館

・町立小清水図書館

 

※ レファレンス事例集あり

 

北広島市図書館では図書館で登録した会員のみが利用できるオンラインレファレンスサービスが存在する。

『親より稼ぐネオニート ~「脱・雇用」時代の若者たち~』

ネオニート」とは、会社に雇用されず、不労所得によって自分の収入手段や生活を守ろうとする者のことである。本書では、そんなネオニート達を肯定的に(読者にネオニートになることは強く勧めていないが)捉え、古い労働観が通用しない変化の激しい世界を生き延びるためのヒントを描いている。

ある者は投資家として、ある者はアフィリエイトを利用したブロガーとして、ある者はゲストハウスの経営者として、ネオニートとして生活している。特にゲストハウス経営の取材は興味深く、不動産業界の経験を経てシェアハウスの会社を起業した大学の先輩を彷彿とさせる。

2007年3月1日が初版発行日であり、内容としてはやや古い印象をもってしまったが、リーマンショック政権交代を挟んだ7年間(統計資料を含めると10年以上)、若者を取り巻く労働問題に大きな変化はないように思える。例えば、p24に「2001年の段階で既に、大学新卒者のうち、入社後3年以内に離職する人の割合は35%に上っていた。」とあるが、厚生労働省の2013年の統計においても3年以内離職率は31%となっており、依然として3人に1人が離職していることになる(厚生労働省「新規学卒者の離職状況に関する資料一覧」http://www.mhlw.go.jp/topics/2010/01/tp0127-2/24.html)。 また、p235に「就活鬱」の3文字があり、既に新卒者の就職活動の困難さによる精神疾患の存在が指摘されている。本書には「就活自殺」の4文字こそなかったが、若者が「いかにして生き延びるか」 に苦悩する事そのものに変化はないと言える。

現在の私は非正規労働者であり、「負け組」を自称している。今後正規労働者になるかどうかは不明であるが、終身雇用も崩壊し大企業が倒産するリスクも少なからずあるこの御時世において、正規雇用が必ずしも「安定」しているとは思えない。ほどほどの緊張感と冗長性を持たせ……ネオニートの生き方も参考にしながら、人生を模索していきたい。

親より稼ぐネオニート―「脱・雇用」時代の若者たち (扶桑社新書)

親より稼ぐネオニート―「脱・雇用」時代の若者たち (扶桑社新書)

ベルサイユのバラ=マリー・アントワネット

ダブルスタンダードらしきものに悩んでいる。

 

職場は「明文化されていないルール」で仕事が進められることが多く、ルールが決められていない為にひとりひとり作業工程が異なる時もある。

 

例えば、「○○」という作業を完遂するために、先輩その1はAのやり方で、先輩その2はBのやり方で進めている。私はAのやり方もBのやり方も教わってしまったために、頭の中で混乱が生じている。

 

先輩その1の前でBのやり方で作業を進めると「そのやり方は違うよ」、また逆に先輩その2の前でAのやり方を進めると「そのやり方は違うよ」。

どちらのほうが正しいのかは新米の自分にはわからないが、要は「○○」を完遂するために、注意を払うべき部分は強く意識しながら、確実に効率よく作業を進めたら良いのだろう。いちいち仕事の様子を見ている先輩ごとにやり方を変えるなんて手間がかかる。

 

中学時代の演劇を思い出す。私はちょい役で抜擢されたのだが、演技指導をする教員が2人おり、「最初の出だしは呆れたような声で」「最初の出だしは不気味な声で」とそれぞれが異なる演技指導をしたために、どう演技すればいいのかわからなかった。

 

この仕事、情報共有とルールの明確化が必要だと思った。

みどりと綾波レイの共通点について

他人からやたら過去を詮索されるのはあまり好かない。

阿呆みたいな人生を送って馬鹿をやっているから恥ずかしいのだ。

 

職場にアンパンマンやおむすびまんのぬいぐるみが並んでいる。

やなせたかしさんが亡くなられても、アンパンマンは生き続けている。

アンパンマンのマーチ」も歌われ続けるだろう。

 

なんのためにうまれて なにをしていきるのか

こたえられないなんて そんなのはいやだ

 

小さい頃は、よくアンパンマンのオレンジ味のグミを食べていた。

今は、誰もいない田舎道で囁くようにアンパンマンのマーチをたまに歌う。

 

アンパンマンは食べ物をくれるけど、自分の生きる意味までは教えてくれない。

 

自分で探さないといけないのだ。

 

成長するおジャ魔女どれみ

仕事に慣れてきて、後輩となる方を教育する時期になった。

 

自分でも仕事上わからないことは沢山あるので、「教育する」というよりは「一緒に学びながら教える」という方がふさわしい。

 

でもまだ生きる意味はわからない。

今の仕事も、いつまで続くか、続けられるか、わからない。

終身雇用制度も崩壊しつつある現代において、ひとつの場所に40年勤務するということは考えにくい。しかし、現場としては育て上げた人間をそう簡単には手放したくないらしい。当然と言えば当然だが。

 

日々模索が続く。

レファレンスの旅も続く。

メーテルなんていなかった

仕事を覚えていくと同時に、いかにして効率よく仕事をこなすかだいたい分かってきた。

しかし生きる意味はまだまだわからない。

 

生きる意味。

仕事のためか?

現在秘密裏に進めているレファレンス回答比較のためか?

オナペットのためか?

 

答えは一生出てこないのかもしれない。

むしろ生きる意味を探しながら生きるのか。

 

再発した中二病と小さな哲学はまだまだ続く。

『ゼロ なにもない自分に小さなイチを足していく』

堀江貴文さんの『ゼロ』を読んだ。

Twitterの140字以内で言いたいことは言えた気がするけど、特に琴線に触れた部分を引用してみる。

 

もし、成果に向かって全力疾走することを「努力」と呼ぶのなら、努力するなんて当たり前のことだ。

 

私は高校時代、ミニバス経験もないまっさらな初心者としてバスケ部に入部した。部員は経験者ばかりで、彼女達の世界に技術的に溶け込めなくて(初心者なのだから仕方がなかったけれど)思い悩んだ。

どうすれば上手くなるのか。

どうすればシュートが入るのか。

 

答えは簡単だった。休憩時間を惜しんで、何度も練習することだ。

 

「三桃シ倒語は努力の人だね」

先輩が引退する時に、私に送った手紙にこう書いてあった。

私はあの時、下手の横好きなりにただがむしゃらに練習していただけで、「努力」の二文字は頭になかったので、先輩のその一言に少し驚いた。

 

引退までレギュラーに入ることはなかったけど、堀江さんの言葉を拝借するなら、バスケ部で「成果に向かって全力疾走すること」ができたことが私の中で大きな財産になった。

 

そんな昔話、である。

ゼロ―――なにもない自分に小さなイチを足していく

ゼロ―――なにもない自分に小さなイチを足していく